古文書を読む(増野家文書)

『須佐萩間道中記』

筑前琵琶 三世友より抜書
横屋丁 増野
整理番号:「11袋24」
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 読解文

父子の訣別  須佐萩間道中記

前 略
P1
今日こそは父の病の いつもより快よくおはしまし
高十郎を顧みて 嬉し涙にむせびけり
さはさりながら父事も 手足叶はず目はかすみ
便所に通ふも侭ならず 高十郎は力を尽し手を添へて

P2
甲斐がいしくに看病し 朝夕怠りなけれども
いつ全快するとも見込なし 軽い身ならばそもないに
児童教育といふ重荷を負ひし 永らく親の側のみに身なりせば
明し暮すも侭ならず 最早一週間の賜暇過ぎて
二週間にもなりぬれば 暇乞して立ち出でぬ

P3
父はさめざめ涙をこぼし 高十郎の押し止むるをも聞き入れず
病の床を起ち出でて 物のあいくも水鳥の
くがにさまよふそぶりにて ヒョロリヒョロリ サグルサグル
玄関口まで見送りぬ 高十郎も涙にむせび
三足行きては二足もどり 別れ兼たる心根を

P4
母は見兼ねて中に立ち 父をすかして連れ立ちて
座敷の内にぞ入にける
父上様御用心と 言ふかタハラノ曇り来て
ぱらぱら落つる涙雨 如何に思へどスサマジノ*1
我家をしほしほ立出でて 町を横切り総門*2を
【注】
*1 スサマジノ=須佐増野
*2 総門=須佐邑「西の惣門」(須佐横屋町、育英門前40mにあった木戸)。仏坂道の街道筋にあり須佐の町頭。門外に一里塚があった。増野家はこの惣門近くに在った

P5
過ぐれば忽ち嵐吹く あらしの神*3を伏し拝み
泣くなくなぎの木*4過ぬれば 草葉の道に践み入りぬ
裙は露袖は涙に湿れ果てて 吉祥寺*5の鐘の音も
最ぞ哀れに聞えける 身も憂くばかり心うく
歩む路すらはか取らず ヒョロリヒョロリト且々に
【注】
*3 あらしの神=須佐横屋町の荒人社(通称=あらっさま)
*4 なぎの木=梛の木(通称=なぎぬき)
*5 吉祥寺=xxxx

P6
ころばず坂*6に取り付きぬ 頭にかぶる笠松*7の
峯の梢を見捨つつ 路のほとりのしるし木も
一本過ぎ二本過ぎ 三本松*8も打ち過ぎて
小高き所に足を止め 後ろにソット振りむいて
遥か木の間を見渡せば むぐらの宿に煙立つ
【注】
*6 ころばず坂=須佐・惣郷間にある仏坂道最大の難所、大狩垰にある。往時、伊勢へ抜け参りした者に命じて造らせた幅1.5m、全長96mの石畳があったが現存せず。 殿様を乗せた籠を転ばした罪で片腕を切られるところ、片袖を切ることで済んだ事から、決して転ばないように用心するようという意味で此の名が付いたと云。
*7 笠松=益田館(現須佐歴史民俗資料館)、笠松神社一帯。
*8 一本過ぎ二本過ぎ三本松=一本松/二本松/三本松

P7
これぞ我身の生れ出し 父の住家にありぬらん
おほげんのう*9とうなづきつ 父の病の忘れ兼
袂の涙をしぼりつつ 右又右に向を更へ
名残雄島*10を跡に見て 又践み立てて行程に
路は次第にけはしくて 金井の坂*11にかぐり附き
【注】
*9 おほげんのう=「大げんのう」「小げんのう」大狩峠の須佐寄りにある急坂。眺望が良いので人々が「げんとのう、ええながめじゃのう」と言った為に名づけられたと云う。 「けんのん」(危険)に由来すると言う説もある。幅2m、長さ58mの石畳が残っている。「此坂近国無雙の大坂にて往来の人民不大方難渋仕候事」(防長風土注進案)。
*10 雄島=天神島/いろは島
*11 金井の坂=金山があり試掘したので金見という地名があったが変じて金井となったと言う。

P8
名にし負ふ大狩垰*12に打登る 頃しも丁度夜明前
東の方に赤休み*13 墨なす雲も稍晴れて
沖に表はる真帆片帆 今朝は便船なしとやら
聞きしに舟の見ゆるとは 嬲られたるか口惜やと
なぶりの浦*14をうらみつつ 惣郷村*15を通り過ぎ
【注】
*12 大狩垰=大刈。標高約300m。注6、9参照。
*13 赤休み=赤休。須佐村と御蔵入との境目。「従是東須佐領」の境目杭があった。(防長風土注進案)
*14 なぶりの浦=名振の浦。大刈の北海岸。金井崎と黒崎の中間。
*15 惣郷村=惣郷。須佐より2里。

P9
権現様*16を伏拝み 尾なしの浦*17に打出でて
浜辺伝ひに行く程に 嵐はげしく波荒く
寄せ来る毎に白浪に 足を洗って尻からげ
あとから見ゆるは赤屎か 赤屎ならで赤虚言と
疑ふ村*18も通り過ぎ 名さへやさしき姫島*19が
【注】
*16 権現様=猪子権現
*17 尾なしの浦=尾無。惣郷海岸の集落。
*18 疑ふ村=宇田郷村。金子家は藩主御国廻りの本陣を勤めた。須佐まで萩から9里。宇田から2里半。道中は暁七ツ時(04:00)萩を出発し、此所が昼の休憩地であった。 九ッ半に宇田を発ち暮六ッ(18:00)須佐に着いた。惣郷ー須佐間が難所だった事が判る。
*19 姫島=姫島。宇田の西方海上の島。

P10
岩打つ濤に音連れて 舞ひつ歌ひつ歌島*20が
縁りの松を頬冠り 招くが如き有様に
見取れて心狂ひけん 往き来る人に突当り
広き大路践みはづし 水田の中をたぶたぶ*21と
通れば坂に取り附きぬ 山又山に分け入りて
【注】
*20 歌島=宇田島。姫島の更に西方に浮かぶ島。
*21 たぶたぶ=田部。木与と宇田の中間の海岸に位置する集落。

P11
淋しい恐いの厭ひなく 苦労する墨馬*22ならで
走り上りし其人は 高十郎の独り旅
口はかはけど水もなく 茶店の一つもあらばこそ
慰むものとて無かりけれ 峯の梢に鳴く蝉も
見てもみんみん言ふ声の きよだに坂*23を打越えて
【注】
*22 苦労する墨馬=「苦労する墨」は宇治川の先陣で佐々木信綱が乗った馬「磨墨(するすみ)」をもじったものであろう。この馬は須佐産の馬であったと言い伝えられる。
*23 きよだに坂=木与谷。木与村本郷木与谷。

P12
清き小村*23に出でぬれば 海も見ゆるし舟あるし
身も浮く*24浜の小松原*25 いつしか通り過ぎぬれば
こんこん谷間に響かせる 東光寺*26の鐘の音の
耳に絶えせぬ其内に かんかん板の聞ゆるは
小学校の門ぞかし 最早散時になりぬらん
【注】
*23 清き小村=木与は須佐から4里。
*24 身も浮く=宇久。木与と奈古の中間(村境)にある集落。
*25 小松原=
*26 東光寺=奈古村東光寺

P13
多くの児童は帰りけり 思ひ廻せば此校は
四五年前の縁もあり 児童も奈古里*27や惜ミけん
袖を引かれて路傍の 茶店の縁に腰掛けて
互に更す言の葉も 廻り遭たる嬉し泣き
尽きせぬ心を思ひ切り 暇乞して別れ行く
【注】
*27 奈古里=阿武町奈古。須佐から5里。

P14
後から声を奈古*27の掛 何を言ふとも白浪の
岩打つ音に埋もれて 聞えぬふりやいぢらしさ
大意地*28さして急ぎ行く 大井の川*29のかけ橋も
風に吹かれて打ち渡り 又もや海辺に廻り出で
一つの垰を越が浜*30 腰まで濡るる露深き
【注】
*28 大意地=大井地。
*29 大井の川=須佐から六里。萩市大井の川。萩藩の東端に位置する。門前とか塩入という。川は大井村(徳山藩領)との境。
*30 越が浜=萩市椿郷東分の海岸。

P15
小畑*31の草路践みならし 日は暮れかかりしんしんと
新川*32口に出でぬれば 人の来たるに驚きて
水鳥ぱっと立にけり 翼を拡げし鶴江島*33
川の彼方に見遣りつつ 路は曲りて鉤になれ
竿になりにし雁島*34の 此方の橋を打渡り
【注】
*31 小畑=萩市椿郷東分小畑
*32 新川=
*33 鶴江島=萩市椿郷東分鶴江
*34 雁島=萩市椿郷東分香川津雁島(がんじま)

P16
渡海近き浜崎*35の 船の便りも吉村*36に
一夜の宿を借り衣 翌日其地を船出して
見島の浦*37に着にけり
横屋丁   増野用
【注】
*35 浜崎=萩市浜崎町
*36 吉村=旅館名か
*37 見島の浦=萩市見島浦方
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