須佐歴史夜話

萩築城中の大紛争事件

『五郎太石事件』

2010年2月1日掲載
栗山 展種
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五郎太石事件の現場となった萩城の石垣  近藤 安弘氏撮影

◇はじめに

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに西軍が敗れ、毛利輝元はそれまでの8ヶ国1,120千石の所領を失い防長2ヶ国298千石に削封されました。これに伴い、益田家一族郎党も同年11月益田から須佐へ移住しました。

輝元は居城広島城を追われ、彼自身は隠居して秀就が家督を継ぎました。輝元はこれより先@広島城築城に巨額の経費を投じ、A朝鮮出兵に少なからぬ戦費を費やしました。 そしてB関ヶ原の敗戦で減封の憂き目を見、C削封に伴って防長両国を除く残りの旧領の民租を新領主に返済する義務、所謂「六カ国返租」問題が発生し、毛利家は浮沈の瀬戸際にありました。 その上にD萩城築城を急ぎ推進する必要がありました。「六カ国返租」問題の解決に益田牛庵元祥が大貢献し藩初の毛利藩を救ったことは須佐の皆様は良くご存の通りです。

所で、新城築城予定地は@萩指月山 A防府桑山 B山口鴻峰の3カ所が候補に上がりましたが、3案を家康に示した結果、指月山と決まりました。毛利輝元が城を築く以前の萩は長門國北浦の典型的な一寒村に過ぎず、 阿武川の下流、橋本川と松本川が作る三角州とその周辺の低積低地は未だ完全に陸繋化されておらず、東側には海水が入り込み、三角州の南東部は皆沼で葦原の水溜まりでした。しかし、毛利氏が萩へ入部する以前、 既にこの地は城下町的な佇まいが形成されようとしていました。天文20年(1551)大内義隆が重臣陶晴賢の謀反によって滅ぼされ、晴賢もまた弘治元年(1555)厳島で毛利元就に討たれ、 防長両国は毛利氏の領するところとなりましたが、萩付近は陶晴賢討伐に功のあった津和野三本松城主吉見正頼に与えられました。正頼は天亀元年(1570)家督を長子広頼に譲って隠居し指月に居館を設け、 晩年はここに住みました。爾来、萩は吉見氏の住居をを中心として家臣団や寺社、さらには庶民も住み始め人口も増え始めていました。

築城は慶長9年(1604)6月朔日に着工し、4年後の同13年6月に完成したと伝えられています。時に、輝元は56才でした。嫡男の秀就はまだ14才の若齢の為、徳川氏との親睦を重ねるために江戸藩邸に滞在していました。 藩政はまだ暫く輝元が指揮しなければなりませんでした。広島城築城には10年を費やしましたが、萩城はその半分以下の工期で完成しました。工事は毛利一門以下、それぞれに持ち場を決め総力をあげて進められました。 東方および山上の要害は一族の吉川広家、西方は毛利秀元が指揮し、普請奉行は三浦元澄、現場の宰領は益田元祥(もとよし)、熊谷元直、天野元政、宍戸元続らの重臣が二人づつ交代で務めました。

城や町の建設に当たり、先ず湿地帯の埋め立てや竹林の伐採から始めました。同時に、吉見氏の居館や同氏の菩提寺である善福寺など指月およびその周辺にあった建物を他地へ移しました。 こうした基礎的な造成工事の後、城の縄張りが行われましたが、最初は指月山頂の要害から始められました。慶長9年6月1日指月山麓の縄張りが起工され、自ら工事を督励するため同年11月11日輝元は山口から 建設中の萩城に入りました。萩藩ではこの入城を「御打入り」と言っています。

この築城の最中に有名な紛争事件「五郎太石事件」が発生しました。

益田元祥(もとよし)は熊谷元直、天野元政、宍戸元続らの重臣と共に二人づつ交代で現場の宰領を務めました。事件は益田家と天野、熊谷両家との間に発生した大紛争事件です。 事件の一部始終は「毛利三代実録」に詳しく記録されているほか、毛利博物館には当時事件処理の為に事件当事者が夫々本藩に提出した関係文書が保存されています。その読解文は東京大学史料編纂室から出版されている 「大日本古文書」毛利家文書之四のP74以下に収められていますから、これらを辿ると事件の経過が良く分かります。また、事件は「萩市史」第1巻P132以下に可成り詳しく解説されています。 しかし現在の須佐ではこの様な事件があった事は余り知られていません。そこで、今回HPでそのあらましをご紹介することにしました。

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xxxxxxx 【写真】「是ヨリ南益田仕口」と書かれた石
益田家の工事受持ち区域は萩城二の丸の東門付近ですが、現在の運河に掛る指月小橋と同じ位置に土橋があって、渡って東門の外門に入れば、内部は桝形で6〜8間の広さがあります。 ここが築城当時、五郎太石事件が起った現場です。現在でも内部正面の石垣の下方に「是ヨリ南益田仕口」と読める刻印が残っています。当時、栗山三郎右衛門兼成(48才)が益田家の普請奉行を務めました。 彼は益田方の「肝煎」として事件の処理に当たりました。彼が書き残した「栗山三郎右衛門目安状」は事件の顛末を益田家の立場で本藩に報告した文書で、上述の毛利家文書の一つとなっています。
なお、五郎太石というのは城郭の石垣の裏ごめや大きな石の間を埋める「ぐり石」のことで、主として阿武川の河川敷や北浦海岸から水運を利用して搬入したとされています。石垣の築造は「穴生役」という専門の職能集団が 行うのですが、近江国から招かれた記録があります。

◇事件の発端

慶長10年(1605)3月14日朝、二の丸東門入口の松の木の下にかねて運搬して置いた約2,100荷が盗まれたと天野元信方の肝煎弥吉が盗人3人を捕らえて益田方の丁場へ訴えました。 益田元祥(もとよし)の肝煎、栗山三郎右衛門兼成が3人に会った処、1人は元祥の、他の2人は元祥の二男景祥の組の者と判りました。

栗山は五郎太石の出入り(紛争)は後で相談すると言ってその場を引き取りました。「栗山三郎右衛門目安状」によれば、事件発生直後から彼は事件を益田元祥(もとよし)やその二男景祥には報告するのは止め、 「犯人とされた3人の一寸した過怠」により引き起こされたものであるとして、これを認めて呉れれば天野側の言い分も聞き届けると申入れ、両家の現場責任者レベルで穏便に話し合って事件を解決しようとしました。

所が、天野方は「件(くだん)の五郎太石は70人がかりで午前中に運搬しておいたものである。 昨日も益田方約20人が天野方の石を盗んだので、その分も一緒に返済してもらいたい」と要求してきました。 栗山はこれに対して「証拠がない昨日の分まで責任は持てない」と断りました。

翌3月15日、熊谷元直の肝煎、生駒三郎兵衛が事件の調停に乗出しました。彼の娘お才が天野元信の妻であり、事件の現場が元直の担当区域であったからです。しかし調停は不成功に終りました。 以後、元直は強く天野側に荷担する様になりました。

3月16日、天野側は紛失した五郎太石の荷数を2,100荷とし、工事の関係上緊急を要するので今明日中に返済せよ。出来ないなら後は受け取らぬ…と強硬に益田側へ申入れてきました。

両者の言分が対立するので宍道政慶と宍戸善佐衛門が仲介に入り、次の和解案を示しましたがこれも不調に終わりました。

  1.捕らえられた3人を処分する
  2.益田方から五郎太石1,000 荷を返済する

そこで数量を 1,500 荷としましたが天野側は 2,000 荷を主張して譲ろうとしません。ここで柳沢景祐が乗り出して、自分が 200 荷を加えようと申し出ましたが、これも天野側は蹴ってしまいました。 こうして、現場責任者同志の交渉は決裂して仕舞ったのです。

◇事件は表沙汰に

3月16日晩、報告を聞いた益田元祥は三浦元棟、三浦元澄を使者に立て、盗人と言われた3人の者を引き続き召し使う訳に行かないから、助命する/しないではなく処分の仕方に関して井原元以に伺いを立て、 その指図に従って処分すると伝えました。井原元以は、益田家主人が事件を知るところとなり、表沙汰になった以上、二人が天野元信と直接談判して欲しい。益田方は3人を処刑することにしたのか。 未だなら仲裁もあることだし処刑するのは一寸お待ちなさい…と返事しました。また、井原元以は熊谷元直が「(益田側は)どの様に申付ける積もりか」と尋ねて来ていると二人に語りました。 これに対して三浦元棟、三浦元澄の両名は

*問題は一時の遅参とか道を汚したとかとは訳が違うし、事件は最早、五郎太石何個の問題でもない。
*盗人3人は身柄を引き渡した以上、益田側は必ず処刑するだろう
*助命してやれば、人々の批判もある。井原元以の考えもあるかも知れないが、自分ならそれを忘れる

と答えました。

ここで、井原が介入しなかったのはもっけの幸いだ。今後は井原に相談しなくても良い。天野側が内々に犯人の身柄を益田側へ引渡したのだから、こちらも内々に処分したらどうか…と言う意見が出たので 元祥はこれを三浦元棟、三浦元澄に伝えました。所が、益田景祥がこれに反対しました。天野元信は井原元以に伺った上で盗人3人をこちらに引き渡したのだから、処刑して井原に報告し、 彼の指図に従ったと言えばよい。それなのに、今後井原には報告しない、勿論三浦元棟、三浦元澄にも報告しない、仲裁にも応じない。それでいて処分の方法を井原に尋ねる。 そして井原が助けてやれと言っているのに処刑するのですか。これでは井原に対して大変不届きな事になる。又、家中の者を盗人と称して身柄を引渡されたのに、助命をして召使うのですか。 玄蕃(元祥)の家来は兎角、自分の家来二人は処刑しますと…。それで益田元祥も自分の家来一人丈を助ける訳に行かなくなり処刑しました。

益田側は誠意を示すために、犯人3人を斬首し、検分の為にその首を天野側へ届けました。しかし、天野は成敗は益田側の法度の問題で首級を検分する必要はない。本来、盗人は奉行所に出して事実を究明するのが法度だ。 その究めもしないで成敗されても首は五郎太石の代わりにならない…として奉行所に訴え出て仕舞いました。(天野元信、熊谷元直外4名連署目安状)

この騒動の為、築城工事は重要な東門入口で石垣築造が2ヶ月以上も遅延してしてしまいました。

事件当時、輝元は二代将軍に補任されて京都に上っていた秀忠に祝詞言上のため上洛の日程が迫っていました。先行していた福原広俊から上京の催促も急なので後事を益田父子に託して4月に萩を出発しました。 輝元は4月22日伏見着、秀忠に拝謁して5月上旬伏見発、下旬に萩城に帰り、7月2日遂に事件に断を下しました。

◇事件の結末

輝元としては益田元祥は毛利氏に大功のある有能な人材で、熊谷元直と共に築城工事の総宰でした。天野元信も元就の七男元政の第3子で自分の従弟に当たります。 熊谷元直も又蓮生坊で有名な熊谷次郎直実の直系で中世以来の名家であり、その叔母は吉川元春の室、広家の生母です。いずれも甲乙つけ難いが、既にその対立が抜き差しならぬ所まで来てしまった以上、 どちらかを非として決着を付けざるを得なくなりました。 輝元の肚は上洛の前に決まっていたものと考えられています。

輝元は事件の非は熊谷、天野側にありとしました。輝元によって誅罰された者は次の11名です。

熊谷元直夫妻、二郎兵衛(元直の二男)、猪之介(同三男)、佐波 善内(作事奉行)、天野元信、与吉、おかい、くま、三輪 元祐、中原 善兵衛

元直、元信については輝元自筆の罪状書が残っていますが普請の罪が問われた丈ではありません。特に元直についてはキリスト教信仰を改宗せず親類縁者まで引き入れた事が数えられています。 従ってキリシタン宗門史は彼を殉教者として扱っています。この事件は築城工事にからむ最大の紛争で、毛利氏の重臣団が対立した重大事件でした。 輝元はこの場合、築城工事を総括する益田元祥の側に立って強権を以て決着を付けました。そして、この事件によって、家臣団が動揺しないように、その年の終りに近い12月14日に福原広俊以下819名の連署起請を求めたのです。

◇事件の決着に関して

五郎太石事件では益田元祥の罪が一切追求されず、天野元信と熊谷元直が粛正されました。その理由は上述のように熊谷元直がキリスト教徒であった為とされています。

しかし、当時の毛利輝元を巡る状況を考えると、彼が益田元祥の側に立って事件を裁いた大きな理由の一つとして、吉川広家(入道如兼)への気配りを見落とす訳に行きません。 萩城築城工事が終わった時、藩の財政は文字通り火の車であり、その対策が大問題でした。もう一つの問題は輝元は齢も人生の半ばを超えて健康も優れず、代わって執政の責めに任ずべき宰相の選定が焦眉の急となっていました。 その唯一の候補者が毛利秀元(長府)でした。

所が、関ヶ原以後、吉川広家は徳川家に近い関係から家中にその進退について疑惑を持つ者があり、関ヶ原で主戦派と見られていた秀元との関係についてもとかくの噂が絶えずしこりが残っていました。 この為、輝元は慶長10年12月、二人を萩城に召し和解を諭しました。輝元は吉川氏の動きに殊更に気を使いながら、出来るだけ早く且つ穏便に秀元に藩政を委ねたい気持ちが強かったと云われています。

吉川広家と熊谷元直とは元直の叔母が吉川元春の室で広家の生母ですから大変密接な関係です。

一方、益田家は永禄2年(1559)益田藤兼が毛利元就に服従して以来、常に吉川元春に従って出役しました。関ヶ原の戦いに於ても益田元祥は吉川広家の軍に加わっていました。その益田元祥は関ヶ原後、 その子益田景祥を毛利輝元の許に留め置き、自身は従来通り石見に留まり奉公するならば元祥の知行はそのまま安堵するとの徳川家康の誘いを断って、益田を捨て須佐に移住しました。しかも彼は武将として丈ではなく、 財政にも明るく「六カ国返租」問題を解決した人物でしたから、毛利藩にとってかけがえのない重臣でした。

そして、萩城築城の時、益田家の縄張りは吉川家の縄張りの中にあり、輝元としては益田側の責任を追及すれば吉川広家に波及する事を考慮せざるを得なかったのではないでしょうか。 血縁の繋がりよりも時の政治的な背景の方がより強く毛利輝元に作用したものと考えられています。「吉見広長出奔事件」や「五郎太石事件」は関ヶ原以後数年を経てもなお毛利家中の組織や統制に色々な問題があったこと 示す事件です。輝元が一日も早く家中を纏め上げるのに苦心していた事が判ります。

◇毛利三代実録

事件の顛末は「毛利三代実録」に記録されていますので、最後にそれを引用しておきましょう。こちらを クリックしてご覧下さい。 → PDF FILE

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