「益田親施の朝幕周旋工作資金調達の記録」

御記六之写

文久2年(1862)12月から同3年3月まで

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「御記六之写」(その2)
解  題

◆激動した時代の潮流

「公武合体運動」から「尊皇攘夷運動へ」

アメリカの使節ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀沖に来港し開国を迫ったのは嘉永6年(1853)癸丑6月3日の事であった。黒船は日本人に日本と西欧との産業・技術力の差を見せつけ、近代化と統一主権国家構築の契機となった。 西欧列強の植民地になりたくなければ、日本は主権国家として国際社会に参加せざるを得ない。 しかし、徳川幕府は自ら「開国」を決定できなかった。朝廷に奏聞し、対策を諸侯に諮問した。鎖国は徳川の祖法であったからである。結果としては翌安政元年(1854)日米和親条約が締結され、 幕府は英、露、蘭との間に次々と和親条約を締結、安政5年(1858)には日米修好通商条約が調印され万延元年(1860) 批准交換使節新見正興が渡米した。この様な経過で幕府は開国に踏み切ったが、叡慮は「破約攘夷」であった。
一方、将軍継嗣問題で第13代徳川家定の後継者候補に家茂(いえもち)を推す南紀派と慶喜を推す一橋派の対立が激化した。 安政5年4月23日、井伊直弼が大老に就任すると6月19日に条約調印、6月25日には家茂が将軍継嗣と公表した。朝廷は「戊午の密勅」を発して幕府の条約調印並びに 慶喜を支持した一橋派大名の処分に反対したが、幕府は「安政の大獄」で幕府に批判的な大名、家老、浪士、藩士、廷臣、家臣を処分、処刑し抗争を力で押さえようとした。
しかし、万延元年(1860)3月3日「桜田門の変」で井伊直弼が暗殺されると幕府の権威は一気に瓦解し、朝廷が政治的な威信を回復し始めた。天皇への忠誠を誓う志士の活動が始り、 幕府の束縛から脱しようとする雄藩が行動を起こした。
長州藩は「朝廷へ忠節、幕府へ真義、祖先へ孝道」の三綱領を藩是と定めていたが、朝幕対立回避のために打ち出した周旋策が「航海遠略策」(文久元年5月、1961)であった。 開国と同時に進んで海外に乗り出し通商貿易を行うべきだが、その国策は朝廷が決定し三百諸侯に号令すれば「尊皇」も貫徹し幕府にとっても違勅調印にならない…という建白であった。 永井雅楽が周旋の瀬踏みを行い、対朝廷、対幕府共上手く工作が進んだが、藩主自ら周旋に乗り出そうとした段階で長州藩内部から反対の声が上がった。 幕府も皇妹和宮の降嫁が許されるなら朝旨に従って10年以内に攘夷を実行すると言い出した。つまり、幕府は開国で長州藩に周旋を依頼しておきながら、他方で攘夷を約束したのである。 更に長井の建白書の一部には朝廷を誹謗した箇所がある(謗詞事件)事が問題になった。結局、文久2年1月15日老中安藤信正が坂下門で襲われ、長井雅楽も藩内尊攘派の攻撃で失脚し、 翌年2月6日自刃しこの周旋は失敗に終わった。
文久2年4月16日「公武合体論者」の島津久光は兵1,000を率いて入洛し、安政の大獄で処分された廷臣や大名の復権を図った。 久光の上洛に刺激された尊攘派志士が京阪の地に集結した。尊皇攘夷の挙兵を久光に期待したからである。しかし、久光は4月23日薩摩藩の尊攘派を伏見寺田屋に討ち、 5月22日勅使に任ぜられた大原重徳(しげとみ)を護衛して江戸に向った。久光の一連の行動により、幕府は安政の大獄の処分を解除し,近衛忠煕(ただひろ)が関白に就任した。 幕府は徳川慶喜を将軍後見職に、松永慶永(よしなが)を政治総裁職に任じた。
その後久光の「公武合体運動」は「尊皇攘夷運動」に押されてしまった。文久2年夏から翌年秋にかけて、長州藩、土佐藩を中心に「尊皇攘夷運動」が活発化した。志士達が横行、「天誅」の名の下に暗殺が続いた。文久2年10月尊攘派志士に呼応して三条実見、 姉小路公知(きんとも)が江戸に赴き、幕府は攘夷実行と将軍上洛を約した。
この様な情勢下、文久2年(1862)7月6日、毛利敬親は京都藩邸に於いて「君臣湊川」の故事に倣い、利害得失を度外視して長州藩の藩論を公武合体から攘夷に転換した。叡慮が破約攘夷なれば毛利氏は幕府に対しても攘夷を促し一意専心尊皇に挺身するというのである。その周旋を世子元徳が行うことになった。
文久3年3月4日、将軍徳川家茂(いえもち)は寛永11年(1634)3代将軍家光以来220年振りに上洛し二条城に入った。加茂神社への行幸に供奉し、 朝廷に対して臣下の礼を採ったので公武一和は攘夷を基調として実現したかに見えた。 松平容保(かたもり)、徳川慶喜、松平慶永(よしなが)、伊達宗城(むねなり)、山内豊信(とよしげ)は既に京にあり、松平容保が新設の京都守護職に任ぜられた。 島津久光も遅れて入洛し、 当時の政治の主役が京都に集まった。関白には鷹司輔煕(すけひろ)が就任し長州藩と尊攘派の期待を集めた。彼らは「破約攘夷」を主張していた。
追い込まれた幕府は文久3年5月10日を攘夷期限と布告した。しかし実行する意志はなかった。また、 将軍の上洛は将軍の威信を損なったとしてそれを進言した毛利氏へ反感を抱く譜代大名や幕臣が少なくなかったので、毛利氏と幕府との間に次第にねじれが生じて来た。 かかる情勢の下で、5月10日、攘夷期限の日にアメリカの商船に対して下関の砲台が一斉に火を噴く。長州藩の攘夷実行によって、幕府との関係は一気に緊迫した。 その後は幕府への牽制を狙った長州藩が大和行幸を建白。それを幕府が巻き返して8・18政変が起こり毛利氏は七卿と共に京都を追放される。そして池田屋の変、蛤御門の変へと国内政治情勢は急転して行く。
この「御記六之写」は文久2年当時、京都にあって藩主を助け朝幕間の周旋に挺身した家老益田親施が、 その京都での活動資金を益田家萩当役の栗山翁輔に命じて大阪の商人から調達した時の記録である。

◆益田親施の活躍

安政5年(1858)6月18日、26才の益田親施は当職の役を辞任したところ、聞届けられたが、代りに当役を直々に任命された。当役は藩政の最高責任者で、江戸家老または行相と言い、 大組(八組とも言う)以上の進退や官位の上げ下げ等藩主の親裁を仰ぐものは皆この職の手を経なければならなかった。 従って常に藩主と行を共にし、藩主在府中は江戸にあり在国中は萩に居た。 親施は文久3年3月当職・当役の制度が廃されるまで5年間在任した。 その間、再三病気を理由に辞任しようとしたが、藩主敬親の信任篤く、その都度懇に慰留されやむなく最後まで在任した。
安政5年(1858)8月21日、みすぼらしい身なりの中年の旅人が藩の直目付梨羽直衛を訪れた。旅人は右田毛利家臣で、京都で画を修行中の甲谷兵庫が中山大納言と正親町(おおぎまち)三条大納言からの内旨を 藩の重役に伝えたいと言った。親施が会ってみると兵庫警備にかこつけて多数の兵を出しておき、万一朝廷に急変のある時には京都に兵を繰り入れて内裏を守護して欲しいと言うものであった。 これが「戊午の密勅」である。 親施は直ちに藩主に報告し、翌日の御前会議で方針を決定し使者として周布政之助を京都に急行させた。こうして長州藩は一意朝廷の意向を奉じて尊攘運動に邁進することになった。
 
文久元年(1861)頃の益田親施の行動を「益田氏と須佐」から辿ってみる。Underline の部分は「御記六之写」の記述と符合する部分である。
*文久元年4月4日〜14日、藩主敬親の南海岸巡視のお供。
*4月28日〜5月6日、兼務していた徳地宰判の巡視。
*5月7日〜11日、敬親に随行して三田尻へ。
*8月2日西ノ浜での内輪家来中高嶋流調練を敬親ご覧の時、直々に指揮。 また同年西ノ浜で大隊指揮を仰付けられた。
*11月13日着府、麻布邸に入る。
*同月28日、参勤幕使松平豊前守来邸の際、送迎をした。
*11月16日、美知姫(元藩主毛利斉煕(なりひろ)六女、文久元年12月16日支藩清末藩主毛利讃岐守元純に嫁す)婚礼の際御輿の役を勤めた。
*11月27日定広(藩の世子。後の公爵毛利元徳)昇進祝いの品を拝領。
*文久2年1月9日、長男清治郎(後の男爵益田精祥(あきよし))誕生。
*

5月29日、藩主帰国お暇のため幕使板倉周防守入来を引請、6月6日御供にて江戸を出発、美濃中津川駅より先越にて同月30日京都到着。

*7月2日、正親町三条、中山大納言へ慶親(敬親改名)より口上の趣をもって使者を勤めた。
*7月16日伝奏坊城大納言俊克、議奏中山大納言忠能(ただやす)、正親町三条大納言実愛(さねなる)、野宮宰相中将定功(さだいさ)等が揃って学習院に於て慶親に対面の節、御供にて出伺し、 建白の上、上の堂上方へ挨拶として廻勤した。
*7月27日慶親が広橋公卿と面会の時御供し建白を済ませた上、挨拶に上った。
*8月2日、定広が御用召で学習院に出席の時御供、御用の済んだ後、広橋、坊城、中山、正親町三条、野宮へ御礼のため廻勤した。
*

9月藩世子定広夫人の住居として益田本家萩本邸一円を借揚げとなったので、留守家族は川屋敷(玉江)に引移った。

*10月4日慶親参内の節御供として参内。
*文久3年1月3日定広参内の節、御供として参内。
*

1月17日慶親参内。朝廷より参議にご推任あったが公は関東を経由せずして直ちに拝命出来ないと一旦辞退されたので、同18日親施は関白其他へその意を使者として伝えた。その後一橋慶喜に通報し可なりし故、同20日公は推任拝受。その節親施は伝奏坊城家へ召し出された。

*

1月22日帰国。御役直詰の役を直接仰せ蒙る。

*3月1日、役を差替えられ、御國留守居役を直接仰せ付けられた。
*

4月17日〜5月2日須佐に帰る。

*

5月7日当職月番引請となって山口へ行き6月8日萩に戻った。

 ◆御用金調達の任務

益田親施は上記の様に文久2年6月30日から文久3年1月22日まで京都に滞在し、毛利藩の当役として藩主に随行し補佐していた。
当時の京都の情勢は尊攘派が活発な活動を展開中で、就中、長州藩はその中心的役割を果たしつつあった。従って、 京都に於ける毛利慶親は関白鷹司輔煕(すけひろ)はじめとする尊攘派の公卿との連絡・交際が繁く、滞在期間も半年に及んだので、益田親施としてもその入費が嵩んだのは当然であった。
この「大阪銀談」交渉の記録によると、この様な状況下で、親施の政治資金、交際費などに要する資金を調達する必要が生じたものと考えられる。 親施は当時、「益田家萩当役」であった栗山忠聰(翁輔)を京都に呼び寄せ、大阪の油屋、泉屋から資金調達するよう命じたものと考えられる。
忠聰は自らが記した「栗山家系図」の忠聰と包達の項に次のように述べている。
<忠聰の項>
文久二戌十二月当春以来臨時御用有之度々萩被召出且御川屋敷御引移一件急場之儀夜白心配遂苦労候ニ付御羽織頂戴被仰付候事
同年十二月
親施公京都御番手中御用有之京都江被為召候ニ付罷上直様大坂江御銀談ニ付被差越翌亥ノ三月帰萩之事
          栗山翁輔
右旧冬俄ニ京都被召登帰り懸直
様御銀談トシテ大坂被差越候所
前以御不足銀御心当甚難題之御
相談筋殊ニ当時勢大坂者モ一統
別而不融通之折柄精々被相働誠
以心配行届候段程克御銀談相調
御祝着ニ被思召候右被為対苦労
銀弐枚御折紙頂戴被仰付候事
<包達の項>
文久二戌十二月
親施公京都御番手中父忠聰御用ニ而被召登候節心添江と〆罷登於京都御警衛人数被召加
翌亥三月父一同ニ帰着之事
「御記六之写」は現代風に言えば、上掲の大坂銀談の経緯をまとめた忠聰の出張報告書の写しである。
この報告書が面白いのは次の様な点ではなかろうか。
@当時の旅行ル−ト、宿泊場所、旅費、情報の伝達方法等が詳細に書かれていて、平時に於て、萩から京都までの上京の旅がどのように行われたかが良く判る。
A藩の御用金調達の調達先、金額、金利、割賦返済条件、生蝋や紙が正金や米の代りに返済に充てられた事等が判る
B金主と武家との関係が克明に描かれている。 当時、大坂の米市場では長州米は主力銘柄であり、大坂商人との関係が密接であった事は広く知られているが、 交渉の経緯や交際の作法、手紙のやり取りを見ると、幕末では士農工商は名ばかりで武士の平身低頭振りが伺われる。但し、明治維新の版籍奉還に至るまでにこの債務が完済されたのかどうか不明である。 益田家の財政の困窮振りが随所に現れる。 実につつましい話が多い。
C関ヶ原以後、幕府は諸大名に参勤交代を義務づけ、手伝普請で財政を消耗させたが、防長2カ国に押し込められた毛利藩全般の窮状は特に深刻であった様だ。 その不満が明治維新になって爆発したと言われている。

上京ル−ト(往路)  17日間
文久二年(1862壬戌)
12月23日萩12時出立、佐々並で昼食、暮過ぎ山口着、宿泊。
24日6時山口発、宮市(防府)で昼食、15時富海着、宿泊。
25日6時富海出帆、17時笠戸着
26日笠戸にて滞船
27日15時笠戸出帆、5時室積着。
28日6時室積出帆、10時室津着。13:00 室津出帆、暮れ沖の家室着
29日家室にて滞船
文久三年(1863 癸亥)
1月1日6時家室出帆、10時豫州津和着、15時津和出帆、19時相島(安居島)着
2日7時相島出帆、12:00 御手洗着。16:00 御手洗出帆、3:00野牛(のうじ=能地)着
3日六時野牛出帆、10:00尾道着。 暮過日比着。
4日11:00 日比出帆。17時播州室西ノ泊り着。
5日2時室出帆、練部(綾部か)経由12時明石着。15時兵庫着。
6日6時兵庫出帆、15時大坂安治川着。土佐堀川常安橋着。宿泊。
7日8時常安橋出帆。暮過、伏見着。宿泊。
8日9時伏見出立、13時京都三条上ル瓦町(河原町)着。

帰路の行程   11日間
1月27日8時京都出立、12時伏見着。宿泊。
28日8時伏見出立16時大坂常安橋着。宿泊。
2月22日14時乗船。船待ち。
23日6時川口出帆、13時家島着、暮過弥賀(八家)ノ沖着。
24日弥賀出帆、16時播州室着。
25日5時室出帆、19時多度津着。26日17時多度津出帆、高間着。
27日3時高間出帆、16時岩城着。24時岩城出帆。
28日17時室津着。
29日室津にて滞船。
30日2時室津出帆、13時富海着。宿泊。
3月 1日6時富海出立、12時山口着。17時佐々並着。宿泊。
2日8時佐々並出立、15時萩帰着。

船旅の運賃
(1)富海→大阪間の海上運賃
■渡海船1艘 運賃  5両 船頭、舸子2人付き
■船旅籠料 1人当り 160文/日
■蒲団代  1枚当たり 400文
(2)伏見→大阪間川船船賃
■30石船1艘    6貫500文
(注)淀川を上下する20〜300石位の運送船を「過書船」と呼んだ。

定宿の名前
(佐々並)土山 久七
(山 口)三文字屋虎吉
(宮 市)藤村屋 孫七
(富 海)入本屋 磯七
(尾 道)本陣 笠岡屋
(大 阪)常安橋 山城屋 喜平治
 同  坂田屋 小七
(伏 見)鈴木 善兵衛
(京 都)近江屋 弥三郎

藩御用金の借入先
■泉屋 六郎右衛門
■油屋 彦三郎

米、半紙、生蝋などの取扱い問屋
藩米の流通は
@蔵米→諸侯蔵屋敷→堂島米市場→蔵米問屋(堂島米仲買)→米穀仲買駄売屋→搗米屋→消費者
A納屋米→納屋米穀問屋→米穀仲買駄売屋→搗米屋→消費者
の何れかのル−トで流通した。泉屋、油屋との取引はAのル−トであろうか。御用金は生産物(米、紙、生蝋等)を担保とした前借りの形で調達された事が判る。

益田家の財政状態
新借の理由は次の様に経常的な経費増であり、将来に向けた経済的目的は何一つ無い。
相州出役
地江戸両役
近年の旅役
時勢の斡旋(公郷方へ日々の参会、諸藩との付合い)
練兵場の所替え
大坂の商人に3種類の債務があった
@安政6年(1859己未)、万延元年(1860庚申)、文久2年(1862壬戌)の3ヶ年の未償還債務(暫借)、元利残高171貫762匁4分7毛
A昨年(文久2年)11月売約済み1,500石、同増石500石、諸借の戌年分割賦返済額、其他大坂支払い分元利合計銀340貫832匁
B今回の新借1,000両
今回の新借銀談を始めるに当たり、先ず@の延滞金の返済計画を提出した。
それによると、元治元年(1864甲子)より明治2年(1869己巳)迄6年間の割賦返済とし、毎年生蝋100丸を以て返済する。生蝋の換算率は丸当り4両、合計400両=銀32貫(金1両=銀80匁)であった。 利息は年率9.1%であった。この通り返済したのかどうかは判らない。
なお、中世以降近世において、関東を中心とする経済圏は金貨幣を主として使用する金極めであり、関西以西の経済圏は銀貨を主体とした銀極めであった。 両地域の金銀貨の比価は相場によって一定ではなく両替屋がその決定に当った。 幕府は慶長14年に金1両=銀50匁=鐚銭4貫文としたが 元禄8年金1両=銀60匁=銭4貫文に改め更に元禄13年に金1両=銀58匁以下=銭3貫900文以下に制する様定めたが元禄から元文に至る間の銭貨の不足もあって鋳造も盛んになり、 宝永の10文銭や元文年代の鉄銭が発行されて銭目が不安定となった。 また、天保初年の100文銭の発行に伴い、天保13年に幕府は金1両=銭6貫500文としている。 更に文久3年には金1両=銀80匁以下の公定比価を保つよう指令したが効果がなかった。
新借は1,000両(銀80貫)だが利息は五朱利(25両について月利5朱。→100両について20朱/月→240朱/年=15両→年利15%)であった。 金融逼迫を理由に従来の三朱利(9%)を六朱(18%)にして呉れとの要求を断って、しかもこの結果であった。 目標は利安銀の調達であったが、どうやら金利18%を値切って15%にするのが精一杯の所であったらしい。 その理由は金融逼迫丈ではなかったと思われる。 当用借りであり、しかも未償還の延滞債務が有ったこと、政局不安などから銀主にとってはリスクの大きな融資案件であったからであろう。 それ丈益田家の信用が落ちていた事になる。生蝋50丸以上を一番船で積登せする事、及び昨年(戌の年=文久2年)の延滞金正金200両を早急に償還する事が新借の付帯条件として要求されている。

萩藩の製蝋事業
借金の返済手段となった生蝋は防長の主生産物たる四白(米、塩、紙、生蝋)の内、撫育方に於て最もその増産に力を入れたものである。 蝋は櫨の木(ハゼノキ黄櫨)の実を原料とし、 藩内に於る蝋燭、鬢付等の需要を満たした残りは、総て生蝋のまま「一○」の商標を付し、大坂に送って売り捌かれた。萩藩の生蝋は「一丸蝋」の名を以て大坂の市場に歓迎され、 宝暦4年の輸出額は2,500余丸、代銀847貫目であった。この後漸減して同8年には1,500丸となったが、それでも1丸の代銀を220匁として330貫目の収入を得たのである。 重就公は製蝋を以て製糸業に次ぐ有利な産業となし、不毛の山野や畠の畦畔等に盛に櫨の木の栽培を奨励した。そのために蝋の産額は明和の頃から再び上昇を示すに至ったが、 幕末に内外の軍事多端になるに及び、撫育方に於ては陸海の軍備拡張費に充てんとして大々的にその増産を計画し、慶応元年11月、これを藩主敬親公に稟請した。 その計画に従えば、30年を増産の第一期とし、佐波、吉敷両郡の境界たる鯖山の谷間に1局50搾木から成る製蝋局20局を建設する。これが完成の暁には、その収益を以て白蝋製造場および蝋燭製造場各3局を同地に設け、続いて玖珂郡山代、佐波郡徳地、豊浦郡西市の3カ所に製紙局各1局、佐波郡西浦或いは三田尻に3000搾木の製油局1局、下関彦島に製鉄所並びに造艦局各1局、 三田尻或いは吉敷郡小郡に織工局並びに染工局各1局を建設し、孰れも撫育方に於てこれを経営せんとしたのである。(出典:「萩藩の財政と撫育制度」P154)この計画は一部実施されたが、 明治4年の廃藩置県により中止の已むなきに至った。

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