創作

四郎と千代の物語
増野  亮
2006年10月

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安芸国吉田荘に興った毛利元就は、守護大名大内を亡ぼした逆臣陶晴賢をせまい厳島に誘い込んでこれを破り、旧大内領である防長2州に 勢力地盤を広げて7年が経った。翌永禄5年(1562)には、残る西国の雄尼子義久を出雲に攻めたてたので、中国における元就の 覇権は目前に迫っていた。
このとき長州須佐には笠松城(別名礒ヶ崎城)と 懸の城(掛の城)という、益田七尾城主益田藤兼6万石に所属する2っの出城が存在した。 もっとも笠松城の方は、元来は津和野城主吉見正頼4万石の支城であったが、防長に勢力を持つ守護大名大内氏の有力な一族陶晴賢と姻戚関係に ある立場が幸いして、このときは既に益田氏の支配するところとなっていたのである。
両雄並び立たずという。西石見地方にあって益田氏と吉見氏は、応仁の乱 以来、ことごとに反目対立して抗争を続けており、 藤兼は陶との姻戚関係をてこに、正頼は大内義隆の大宮姫を娶るほか毛利との結びつきを背景に、互いに武威を競った。
だから陶晴賢の滅亡は 益田氏にとっては後ろ盾を失う痛手であり、吉見正頼にすればまさに「時は今 あめが下しる 五月哉」の句で 知られる後代の明智光秀の立場に似た決断の時期、と考えたに相違ない。
笠松城奪回の魅力は、陸地を視野に入れながら帆走する当時の帆船航法を考えると、洋上遙か遠くから自船の所在を知ることのできる標高 1800尺の高山岬があり、それを防風壁とする八つ手の葉のような形状の深い静かな港がある。 つまり三韓や唐などと交易を行うのには打ってつけの 場所である。まして正頼にすれば、失った自城を取り返すにすぎない行動なのである。

笠松城は、藤兼の老臣益田刑部少輔兼貴が、配下の市原丹後守や岩本玄蕃允ら屈強の手兵60を引き連れて守りを固めていた。この時代、いくさは秋の収穫期が終わり次の春の植え付けが始まる迄の農閑期に行われた。 永禄5年(1562) の2月27日、吉見正頼が突如500の大軍を須佐へ差し向け、笠松城と寺戸左近以下兵30が守る懸の城に攻寄せてきた。

この日の昼どき、懸の城から昇る狼煙でいち早く吉見の進攻を知った兼貴は、すぐに邑中へ陣ぶれを行った。非戦闘員である家臣の家族や 一般民衆を、ころばずの坂から大げんのうを越えて惣郷へと避難させた。漁民もまた漁船に家財や家族を乗せて洋上から難を避けた。 須佐邑の集落はどこも戸を固く閉ざし、たちまち無人と化した。笠松山の中腹には、急いで防御陣が造られ、中畑、唐津、堀田、野頭、北谷 など近郷の武士や小者もおいおい槍や弓を手にはせ参じた。このため笠松城兵は80。 懸の城兵も50に膨れた。これに対し吉見の軍勢 500は、笠松城周辺へ400,懸の城へ100の兵が包囲陣を敷いたのである。彼我の勢力差に注目 した兼貴は、直に籠城を決意した。そして七尾城へ救援を求 める屈強の武者ふたりを出発させると同時に、手の空いている者には、村落にある米倉の食物と飲み水を山頂の城内へ、夜を徹して運び込ませた。 須佐郷土史研究会の発行する”温故誌7号”に両城の山頂の広さの調査記録がある。標高98bの笠松城が約408平方b、標高80bの懸の城は 3分の1の約132平方bで、此処にそれぞれ2階建ての砦が築かれていたと推定される。
翌朝、兼貴が望楼に登って山麓を見渡すと、早くも寄せ手の幟旛がちらちら木立の合間に見え、天幕周辺のあわただしい動きが周囲を威圧する。この日は、双方に際だった 動きはみられなかった。兼貴は、防戦部署と人数割を取り決め、防御柵の補強を行った。夜になってから敵情探索の探りの者数人を百姓の風体で送り出した。 だが翌朝になっても誰ひとり帰陣してこなかつた。捕縛されたか、殺されたか、それを知った城兵に緊張がはしる。敵は包囲網を厳しくして、城を孤立 させているに違いないと、誰もがその寄せ手の人数の多さを想像して恐怖すら感じた。
野鳥の鳴き声も聞えず、静寂のなかを数羽の鳶がこれから激烈な格闘戦が始まるとも知らず、ゆうゆうと舞っている。「あの翼があれば」と城兵たちは いまさらに普段見慣れた鳥が恨めしく思えた。
「衆寡敵せず」討って出ても貴重な部下将卒を失うだけだ。兼貴は益田本城から救援を求める狼煙を、 懸の城へ向けて上げた。懸の城からはその先の狼煙台へこれを伝え、東方8里先の七尾本城の主君へ来援を要請する仕組みである。 湧き水の出ない小山の城では、一番の心配は飲料水である。 櫓上にも大桶を据え、雨水を溜める工夫はあったが、この時期の山陰はあいにく雨が少ない。不意の攻撃でふくれあがった城兵を賄うには、 食料も十分とはいえない。兼貴は砦の居間で兵同様に干し飯の湯漬けを食べながら節水策を考えていると、息を切らせた 使い番が、敵の射込んだ矢文を持ってきた。御城主益田兼貴殿という上書きを返すと、堀田播磨という吉見の重臣の差出し名が認めてある。 折り紙を開いた兼貴の顔が曇る。
「たわけた言い分よ」
居合わせた配下に決意を示すかのように、その場で矢文を破り捨てた。矢に巻かれた書面には、“二人の使い番は捕えた。懸の城の先の 狼煙台は事前に我らが押さえた。救援を待っても無駄である。もし降伏するなら城兵の命を助ける”と認めてあった。
兼貴には一計があった。昨年春からひそかに隣接する山の麓へ抜け穴を掘っていて、それがこの急場に間に合ったのである。
掘り出した土は、すべてこの山砦の防衛普請に用いたので、地元の住民にもほとんど知られていない。敵の誇らしげな矢文にも抜け穴の出口を 押さえたという文字は無い。兼貴はまだ独り身の舎弟、四郎を呼び寄せた。
「今夜丑の刻、抜け穴から七尾城へ向い、こちらの状況を知らせて救援を求めて欲しい。あと7日間くらいはなんとか防いでみせる。それまでに 助けが欲しい。穴の出口周辺では特に気をつけろ。途中決して短慮を起こすでない。お前の肩には80人の命がかかっているでのう」
がっちりした筋骨の四郎は、大役を命じられてにっこり頷いた。
「一命に代えても使命をやりとげます」
「臼が浦あたりから夜陰にまぎれ、海上を舟で行くのが良策だろうよ」

農夫姿に変装の四郎は、仕込み杖を手に一人がやっと通れる急勾配の穴に足から入った。なかは暗闇だが、入り口からシュロの皮で編んだ 丈夫な綱が斜面に沿って垂らしてあった。ぐいと引くと出口の番卒が了解の符丁ぐいぐいぐいと3回綱を引いてきた。掌を傷つけぬよう皮袋 を手に巻き、腰当てを結びつけると体を横にして滑るように降下した。背に負う仕込み杖と頭にくくりつけた干し飯の袋が踊る。すぐに着いた。
「外に人の気配は」
「ない」
低い声がすぐそばで聞えた。そのとき、四郎の足元を小さな獣らしいものが触れて走った。
「野犬かな」
「野ウサギじゃろて」
穴番は口数少なくぽつりといった。状況を聴きたいだろうに余計な事は言わない。職掌を心得ていているしっかり者と四郎は感じた。
月明かりがほのかに見える方へ身体を寄せ、首だけ出し月光に目を慣らす。少ししてゆっくりと這い出た。背をかがめ熊笹を音もなく分け、 少し歩んだ四郎は、ぞーと背筋に悪寒が走った。
草木も眠るこんな時刻、10間先に人が立っていて、こちらを見つめている。四郎は硬直した身体に、仕込み杖をゆっくり引き寄せた。
よく目を見据える。こんどは異様な光景に驚いた。眩い緋のよろいに大小を手ばさんでキリット鉢巻をした凛々しい若武者がいる。 だが、手には小型犬を抱きかかえて、妙に艶っぽい色香が感じ取れる。たしかに女人だ。
武者姿の女人が歩をすすめる。そのとき月光が、女の顔を直接浮かびあがらせた。長い黒髪が鎧の肩にかかる。
「そなたは、千代姫どの」
四郎は、思いもかけぬいくさ場での出会いに思わず息をのんだ
「吉見家のご重役堀田様のご息女、千代姫ですね。昨秋、津和野のお屋敷でお会いした益田四郎です」
四郎は、懐かしさに満面笑みを浮かべながら近寄った。

昨永禄4年9月、四郎は七尾本城の家老の供に加えられて吉見の三本松城へ向かった。津和野城下での道すがらのこと、一行を後方から 追い越そうとした一頭の騎馬があった。行列の後方で蹄の音を聞いた小者が馬を避けようとして振り返り、重い鋏箱を担いだまま立ち往生となった。 そのため馬が驚き、両の前足を高くあげて斜になったため、乗り手が路上に投げ出されたのである。
後ろを振り返った四郎がとっさに駆け寄り、がっちりと両腕で抱き起こした。
「お怪我は」
驚いたのは若衆姿ではあるが、ふくよかで柔らかい感触が四郎の腕に伝わってくる。よく見ると、若い麗人だ。目を合わせた瞬間、 四郎は雷に打たれたように感じた。淡い慕情の虜になったのはこのとき以来である。相手の身体の温もりまで感じられ、胸を締め付け られる気分に困った。
吉見の重臣、堀田播磨はかねて男のような振る舞いを好む愛娘千代に手をやいていた。他藩の使者一行への娘の無礼を陳謝するため、 自邸に一行を招き丁重な宴を設けた。彼我の重職が談笑している間、千代姫は、廣い屋敷庭の庵に四郎を招き、薄茶を点てた。そこで しゅんしゅんと茶釜の沸騰する音を耳にしながら若いふたりが、上気した顔でわりない仲になるのに時間はかからなかった。それはごく自然な成り 行きであった。

年を越すと吉見藩内の益田藩への空気が急変し、密かに出陣の準備が整えられた。三本松城から、思慕する四郎の笠松城へ進攻すると 知った千代は、強く父に参陣を乞うた。初めは峻拒する播磨だったが、愛娘の強い嘆願にほだされ、とうとう後方の守備陣にとどまることを条件に やっと申出を許した。
千代姫の四郎への秘めた慕情は、日ごとに募るばかりである。
須佐に進攻して、水海と呼ばれる海辺近くに千代姫は陣屋を割り当てられた。だが鼻先の小山に四郎がいると想うとじっとしておれない。 一目会いたいという強い願望に駆られ、月明を頼りに深夜陣屋を抜け出たのである。昼間見定めた笠松山に一歩一歩近づくだけで胸の疼きが、 軽くなるのであった。神仏に四郎への加護を祈りつつ、ついに笠松山の山麓まできてしまった。途中何度か味方の哨兵の咎めを受けたが、 有名な男勝りの千代姫と判ると、誰もが黙礼して道を空けてくれた。

「どうして戦場に」
「 なんとしても一目お会いしたくて、神仏に祈願した甲斐がありました」
千代姫が、四郎との再会を信じて山麓に近づいてくると突如、野ウサギが現われ、それを愛犬が後追いしようとする。あわてて制止しながら 歩いてくると、地からわきでるように人物が現われた。背格好から四郎に違いないと直感し、もう嬉しくて嬉しくて立ちすくんだと経緯を語る。
「このまま 私を砦のなかでも何処へでもお連れくださいまし。四郎さまと居られるならば死んでも本望です」

四郎は、千代のたぎる想いを知り、言葉を失った。
「出来ることならそうしたい。でも今は、使命を帯びた身。四郎であって四郎ではない。判ってくだされい」
「………いやです。どうしても別れるとおっしゃるなら、私も武者の娘。敵方の間道を見逃すわけにはまいりません。私を刺してお通りください」
千代姫は、手中の子犬を放り出して、サッと身を引き太刀を抜き放った。
やむなく四郎も仕込み杖の鞘を払った。だが柄を握る手に力が入らず、ここで愛する千代姫に討たれるのも運命かも知れぬと思えた。

千代姫の失踪を知った警護の武士が、味方の立哨から姫の向かった方向を聞きつけ、血眼の形相で追ってきた。そして只ならぬ二人の対峙する 姿を見るなり、側面から四郎目がけて矢を放った。
数歩前で四郎が射倒されるのを凝視した千代姫は、とっさに最悪の事態を直感したらしい。大きな目を見開いて絶叫するなり、太刀を投げ打ち、脇差しを 逆手に取って、四郎との心中の道を選んだ、とみえた。自身の頸動脈を切り裂いたのである。猛然と血しぶきが周辺を染める。
思いも掛けぬ急展開に驚いた警護の武士が、慌てて千代姫に駆け寄る。それを気配で窺った四郎は、左上腕に刺さった矢傷をそのままに、がばっと地を蹴り、 武者に迫る。相手が振り返るところを一刀のもとに切り下げた。
これらは一瞬の惨劇だった。
「姫っ姫っ」
抱き起こす四郎の声が聞えたのか、千代姫は想い人の腕のなかで目と口を開いた。
「えっなんです」
「なにが、なにが言いたいのです」
懸命に四郎が、耳を寄せて問うが、千代の声は声にならない。
やがて、満足そうに笑みを浮かべたままこと切れた。

それから半刻が経った。巧みに敵方の見張りの目を避けながら遠ざかる人影があった。流れる涙を拭いもせずくしゃくしゃの形相の四郎は、高山の樹海 をかいくぐって江崎湾に面した 臼が浦へ急ぐのであった。 笠松城から約2里北東に当るこの地区には吉見兵の姿は無かった。薄明のもと礒辺には伝馬舟が繋がれ幸い櫓が残されている。四郎は、漁師を捜すが、 周辺に誰もいない。使える右手だけで伝馬舟の櫓を掴んだ。生憎向かい風だ。この手傷では外洋を益田へ漕ぎ着く体力もない。対岸江崎へ向けて片手 で漕ぎ進めた。岸にはい上がると人里を避け昼は藪に伏し、夜のとばりがおりると身を起こす四郎の姿に気付く者はいなかった。

3日が過ぎ4日目の朝、待ちに待った救援の益田本隊800が田万川を渡って須佐の両砦へ駆けつけた。先鋒隊のなかに 皆を誘導する四郎の姿があった。 短期決戦に失敗した吉見勢は、新たな益田勢にわずかな抵抗を示したが、あっさりと自領の方角へ引き揚げた。
笠松城まで来ると四郎は、まず抜け穴口へ駆けつけた。予想どうり、千代姫の遺体はおろか遺留品らしいものは何一つ残っていない。そのまま 頂上の城塞へ駆け上り、城の守備兵たちと抱き合ってお互いの無事を祝った。聴けば四郎が脱出した後、笠松全山で昼夜を分かたぬ激戦だった という。尊敬する地頭の市原丹後守、親友の岩本玄蕃允ほか、中島図書允、川津雅楽允、古屋縫殿助、中間竹三など10人もの強者が討ち死し、多数の手負いがでたと知らされた。
父、兼貴を探し求める四郎に、馬廻り役は力無く
「城主さまは、昨夜の激戦のおりこの砦で鬼神のようなお働きをされていましたが、槍傷を受けたため力尽きて城壁からご転落なされた。 無念ながら多勢に無勢、お助けすることができませなんだ。あのありさまでは討ち死なされたに相違ない・・」
と顔を伏せた。
力を落とした四郎は、兼貴の遺骸を求めて笠松山の山肌を隈無く探すが、死者の中にもそれらしい姿はない。失望の果て、足は自然に千代姫臨終の 抜け穴口に向かった。
千代姫の死。夢であってくれればどんなにか嬉しいが、やはりそれはまがう事なき現実だ。あのとき、地上に出て顔さえ伏せてここを走り去ってい たならば・・。
悔やんでもどうにもならないことではある。
「姫、心中と見せかけて手負いの私への二の矢をそらすため、ご自身の命を絶って警護の武者の注意を引き寄せられましたな。 黄泉の国への旅立ち、使命を果たしたからは、遅ればせながら拙者も共に参りましょうぞ」
片手でぎこちなく鎧を脱いで草むらに着座し、脇差しを抜いたそのときである。
「四郎、このうろたえ者め」
激しい叱声が聞えた。少しかすれ声だが、聞き覚えのある声である。
振り向くと、暗い抜け穴口の枯れ草を払いつつ、髪を振り乱し亡霊かとまがう父兼貴が、太刀を杖代わりによろよろと近寄ってくる。

もう再会は叶わぬと覚悟していた四郎の渋面が、たちまち満面の笑みに変わった。

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〔後書き〕 後日譚だが、吉見の臣堀田播磨は、千代姫自刃の経緯を四郎の弔意状で知り、懇ろな返書 と共に姫の愛犬を四郎の下に送り届けたという。
七尾城主益田藤兼は、老臣益田兼貴およびその配下と懸の城の城主寺戸左近以下の奮闘を激賞する軍忠状 を残している。
吉川元春は、かねて藤兼の武将としての器量を高くかい、そのことを元就に進言した。元就も将来の石見経営 には、藤兼と正頼の和解が必要と考えていたから、今回の正頼の断りのない派兵を苦々しく想ったことを元春へ知らせ、元春はこの書状を正頼に示して反省を促した。
毛利氏は、今後の西石見両家の紛争再発を防ぐため、吉川の娘を藤兼の子息元祥に娶らせ、正頼の子息 鬼王丸には元就の嫡子隆元の娘を娶らせ、三家の血縁を深めるという措置を執ったので、それからは益田、吉見両家の間に紛争は起きなかった。

(完)

参考文献:
「益田市誌」 上巻
須佐郷土史研究会誌「温故」7号
Copyright(C)須佐郷土史研究会