創作セミドキュメンタリー

音槌とロシア水兵
増野  亮
2006年10月

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『ロシアバルチック大艦隊ガ対馬ノ東ニ出現』という緊急電報が、山陰北浦海岸の須佐村役場に舞い込んだ。明治38年5月27日のことである。更に『 敵艦隊ハ追々日本海ニ接近シツツアリ、何時ドノヨウナ事変ガ発生スルカモシレヌユエ十分警戒ヲ厳シクシ、狼狽シテ根拠ノナイウワサヤ流言ニ惑ワサレヌコト』という管船局長から第2報が着電した。
「こりゃあ、おおごとじゃ」
 中村村長は、2枚の電文を右手に広げ、左手で禿頭をさすりながら大急ぎで兵事掛を呼び、万一の艦砲射撃に備えて婦女子を唐津や堀田地区へ避難させ、15才以上の男子には役場と警察の指揮下にはいるための待機を命じた。

浜浦の区長から青木音槌は、「ロシアのバルチック艦隊が、はるばる南半球を廻って日本に向かっている」と聞かされて以来、胸の高まりを抑えることが出来なかった。・・・・あの黄海海戦のような壮絶な軍艦の砲撃戦が、毎日漁労にでかける海原でくり広げられる、いやそうに違いない。千載一遇のチャンスを見逃してなるものかと気負い立つのであった。
 27日午後、役場からの知らせを伝えるため、漁師仲間の菊造が音槌の戸口に駆け込んできた。
「オイ音兄ィ、聴いてくれ。明日から当分漁にでることまかりならんちゅうお達しだ。
なんでも露スケの大艦隊が攻めてくるかも知れんそうな。指示あるまで待機せいちゅうことだぜ。どねーしたもんかのう」
「どねーもこねーもあるかい。こうなりゃ、腹据えてロシアの出方をみるしかないじゃろうに」
菊造は、折角の大ニュースを知らせに来たのに、肩すかしを食った気分で帰っていった。
「おっかぁ、すぐに『むすび』を作ってくだされ」
「あれ、漁止めちゅうて、いま菊さんが知らせてくれたばかりじゃないか」
「ああ、じゃが天神島の沖に仕掛けて置いた大事な網が気がかりじゃ。潮の流れの激しいところじゃからの、もしも破れたりしたら取り返しがつかんでのう」
昼近くなって、雷鳴に似た音が遠くから聞え、家々の障子や板戸を地震のように揺すった。・・砲戦!・・音槌は、すぐに浜辺へ走りいつまでも沖合の方を眺めていた。

 音槌は、その腕力と生来の無鉄砲さでこどもの頃から頭角を現した。そのうえ負けん気が強く、隣村の祭では、腕白同志の喧嘩騒ぎに必ず顔をみせる。背丈が大きいわけではないが、すばしっこいうえに手がはやい。ある時など、対立する喧嘩集団の真ん中で、相手のガキ大将をぐいっと睨む。恐れるどころか単身スーと詰め寄る、とみるや間髪をいれず向こうずねを力一杯蹴飛ばした。これほど堪えるものはない。
「いてて、うーん」
大きなずうたいの相手は、よろめくようにその場に座り込む。大将が戦意を失うとみな気勢を削がれ、喧嘩の形勢は一転する。相手方はしゃがみこんだガキ大将を脇から抱え、捨てぜりふを残し退散する。 音槌はまた 侠気があり、言い出したら聴かない。夜、台風が須佐湾を襲ったことがあった。船のもやい綱が切れたと知ると、引き留める声を振り切って初秋の肌寒い海へザンブと飛び込み、舳先の碇をひきずって遠ざかる船に追いつき、そこから垂れ下がるもやい綱を探し出し、荒波のなかで仲間の大事な漁船を無傷で救ったこともあった。そのたびに母親のおよねは身も細る心地で、亡夫の位牌に息子の安全を祈るのであった。
 浜浦がもっとも賑あうのは夏の『祇園・弁天祭』である。音槌ら約30人の褌姿の若者の担ぐ神輿が、「わっしょい、わっしょい」街を猛スピードで駆けまわる。浜辺に着いた神輿は舟に乗せられ、笛太鼓の花舟と神輿舟を先導する10隻余の舟からなる御神幸が湾内を賑々しく3周する。その日は湾央の中島で宮司も神輿と一泊する。
 翌日が呼び物の通称『押しくらごう』。この和船漕ぎの競争は、カンカンカンという石油缶を打ち鳴らす合図で、10隻余の舟に乗り込んだ赤銅色の筋骨たくましい下帯1本の若者たちが、威勢良く6挺櫓で猛烈に舟を進めると、浜を埋める群衆は、もう総立ちで声援を送る。沖合の浮き樽を廻ってゴールのテープを切るのは、決まって音槌の組であった。およねもこの時ばかりは、黒山の見物衆に混じり浜辺の一番見よい場所に位牌を胸に陣取り、並はずれた息子の力量を誇らしく思うのであった。

翌5月28日のまだ夜明けにはほど遠い時刻、漆黒の湾内を沖合へ滑るように進む小舟があった。櫓の運動に調子を合わせる音槌の口ずさみが、水面をゆるやかに流れる。
 煙も見えず 雲もなく
 風も起こらず 波立たず
鏡のごとき 黄海は 
曇りそめたり 時の間に
・・・・・・・・・・
 日清戦争の時の『勇敢なる水兵』を口ずさむ音槌は、砲弾の飛び交う歴史絵巻の真っ只中に突き進んでいる気分であった。
 うしろを振り返ると浜浦の集落はまだ闇の中に包まれていて見えない。・・・網揚げと偽って出てきたが、多分おっかぁは巧い理屈で言い逃れたと、床の中で苦笑しているに違いない。・・・櫓の動きに起こされた夜光虫が、煌めいて音槌を見送る。
 須佐湾を抜けると、外洋の荒波が容赦なく船の端をたたき、ときおり風にあおられた飛沫が顔にかかる。洋上はまだ闇に包まれたままである。

 軍艦が遠くに現われても、灯火管制をしているだろうから、近づいて波頭を見るまでは発見できないのではないかと思っていると、突然、昨日聴いた砲声がいんいんと聞えてきた。かなり遠い。続けてまた聞える。腹にずしんとくる震動が、戦場に近いことを感じさせる。ほほを紅潮させて、音の方向へ舳先を向ける。
 時間が流れた。
 砲声は途絶え、周辺はすっかり明るくなった。
 午後になると緊張が解け、空腹を覚える。音吉は、2間余の長い櫓を舟に引き揚げ、どっかり座る。この調子だと、艦隊の姿を見るのは無理かも知れない。
 むすびを、竹の皮の包みから取り出す。シットリとした食感とともに新わかめの香気が口中に広がる。竹筒から緑茶を飲み、沢庵を囓るとなんだか幸福な気分になった。
また数発、砲声が聞えるが、いくら見渡しても船影は全くない。さすがの音吉もうとうとした。
 ふと目を覚ますと舟はかなり流されたとみえ、遠景がすっかり変わって高山が遙かに小さく見える。日も斜陽になってきた。
「今日はこれで、引き返すか」
残りのむすびを口にしながら櫓に手をかけて方向を変えた。やがて辺りが夕靄に包まれ、舟ばたをたたく波頭も小さくなった。とそのとき、なにやら人の声が聞えたような気がした。・・まさか船霊でもあるまいに・・・
 こんどは、かすかにザッザッという波をかき分けるような音がする。薄明の海原に目を細めて見極めると遙か後方に黒い小型船の影が波間に見え隠れするではないか。
一瞬「ロシア軍の上陸部隊」という思いがひらめいた。
音槌はぶるっと戦慄した。すぐに櫓をわしづかみにするなり、渾身の力を込めて一目散に須佐湾口へ向け漕ぎに漕いだ。
 しばらくして、手を休めて月光の彼方をみやると、たしかに黒い船影の船は、こちらの舟を追尾している。
「とんだことになった。一刻もはやく皆に知らせなきゃ」
全身汗まみれになりながら、漕ぎ続けた。

 浜浦は、須佐湾の奥を南北に長くのびる砂丘である。その背後には漁師街が黒い家並みをみせている。この夜、浜辺の正面にかがり火が焚かれ、土嚢が築かれていた。壮丁達が鉢巻や兜をつけ鉄砲や弓矢、槍、長刀でめいめい身を固め、交代で月明りの湾口を見張っている。
 午後9時に近づく時刻、沖の方から一直線に音槌がこぎ帰ったので、皆は唖然とした。
 へとへとになりながら、湾口を振り返り「敵襲です」と叫ぶ。だが、それらしい船影は見えない。
 浜辺で総指揮を執っていた駐在の巡査長が出てきて、にこやかに言った。
「よく知らせてくれた。すぐに偵察舟を出そう。敗残で漂着の兵かもしれん。休養してくれ」
「わたしも捜索隊に加えてください」
巡査長との短いやりとりのあと、銃を持った数人の男と共に音槌は3隻の先頭に乗り込んだ。

 須佐湾を抱えるように標高532bの高山(神山とも書く)が、日本海にせり出している。この山には漢民族の伝説上の皇帝である『黄帝』を祀る祠が残っていて、古記録によると航海安全の神として広く信仰を集めていた。そのためか、この地で造船業が盛んだったらしく、帆柱、塚木、梶、錨、ろおきばなど船具にちなんだ地名が残っている。
 音槌たちは、湾口をこの高山の山裾に沿って海岸線を北に進んだ。今では世間によく知られている巨大なホルンフェルス(接触変成岩:ドイツ語)の断層が見えるところで、すぐ手前の『海苔石』とよばれる広い扁平状の岩盤にさしかかった。
 居た居た! 月明りのもと、そこに約30人余の紅毛の男たちが、てんでに岩に身体を横たえ休息しているではないか。よく見ると服装はバラバラで、セーラー服、シャツ一枚、中には上半身裸体の者も混ざる。心配された小銃などの武器は見あたらない。
「やつら、乗艦を沈められた敗残の水兵たちだ」
戊辰戦争生き残りの永田義左衛門が、舟に仁王立ちになったまま、水兵の群れに銃を擬しながら、正面へ舟を進めさせた。
「 ミナ、テヲアゲイ。ニホンゴノワカルモノハイルカ」
薄明に降ってわいたような3隻の小舟に十数人の日本人が、鉄砲片手になにやら叫んだので、ざわめきが起こった。だがすぐ沈黙にかえり、身体を固くして日本人たちを凝視する。
「ヨシ、ミナ、ソノフネヘ、ノレ」
 永田老兵は、右手で小銃を小脇にかかえたまま、ロシア人全員を示すようにゆっくり集団へ向け左手で円弧を描き、こんどは素早く彼らが乗ってきたそばの短艇(カッター)を指さした。
 手振りを理解したロシア人たちは、むっくり起きあがり、短艇に乗り込む。やがて先導舟と後ろの監視舟とに挟まれたロシアの短艇が浜正面に接近ずる。だが近づくにつれ、浜の群衆が騒然となってきた。

 ほぼ1年前の6月15日、沿海州のウラジオストックを根拠地とするウラジオ艦隊が、非武装の日本運送船、常陸丸と佐渡丸を砲撃して沈没させたことがある。軍の指示で須佐からも捜索船を派遣し、見島沖でおぼれ死んだ近衛騎兵と人夫の2遺体を収容した。この遺体が村民の涙をさそい、ロシア憎しの感情が高まっていた。さらに大陸の陸戦で骨肉の子供を戦死させた母親なども居て、
「むすこの仇、ロシア兵には大地を踏ませるな」などといきまく。
 3隻が岸辺に近づくにつれて黒山のような群衆の興奮は募り、かん高い野次が激しく飛ぶ。
この雰囲気がロシア人たちに恐怖を与え、短艇を漕ぐロシア兵たちは、前後の舟の制止を振り切って反転、湾内の『二軒屋』と呼ばれる入江へ逃げ込んだ。

 沿岸警備と治安の任にあたる村長と巡査長は、木箱に上がり浜の群衆をなだめた。
「遠望したとおり、銃ひとつ持っていない。乗艦が沈没し九死に一生を得た人たちだ。
いくさは、國と國の争い。個人相互に恨みはないはずだ」
「ふだんから、仁義や礼節を尊ぶことを誇りとする我々が、一時の感情にとらわれて世間の笑い者になってはならない。頭を冷やして冷静に振る舞おうではないか」
「窮鳥ふところにはいらば、猟師もこれをたすくという。尚武を重んじる吾々には、武士の情けというものがある」 
 はじめ強硬な言葉を吐いていた人たちも、村長らの言葉にさとされ静かになってきた。そこで迎えの舟を送って、ロシア兵の集団を浜浦の丘にある『法隆寺』に収容し終えたときは、深夜となっていた。

 ロシアの水兵を収容して村当局が困ったのは、言葉である。風俗習慣の違う異人たちが異常な境遇下にある。どんな誤解から事件にならないともかぎらない。幸い旧制萩中学生の大谷清記という青年がいた。偶然にも須佐に帰省中で英語が得意であった。大谷青年がロシア兵に尋ねると、英国留学の経歴をもつカエランドスキーという一等水兵が、これまた英語をよくすることがわかった。この二人の協力で村当局は大いに助かった。
 カエランドスキーの話しから敗残水兵たちは、日本海軍に撃沈された第一巡洋艦隊所属の2番艦、巡洋艦オーロラ(7860d)の乗組員ということが判った。大谷青年とカエランドスキーの通訳コンビは素晴らしく、日露両国人の感情も大いになごんだ。
 兵卒の中に包みを大切に捧げ持つものがおり、中を見せるように伝えても応じない。なんとか説得するとなんと、ロシア皇帝ニコライ2世とロシア正教会教管長の肖像画だった。当時日本でも天皇陛下のご真影には最高の配慮が払われており、乗艦の沈没という急迫事態にこれら肖像を奉じて脱出したことに、村民たちは深い感銘を受けた。収容先の法隆寺に向かうときも肖像画を先頭に捧げ持ち、そのあとを粛然と並んで進む。寺の広間に入っても腰をおろす者などいない。やがて日本側へテーブルを求め、これを正面にすえ扉を開いて全員が礼拝。賛美歌を斉唱してやっとくつろいだ。
「ロシア人もなかなかのものじゃ」
永田老人は物事に感じたときの癖、顎ひげをしきりにさする。
 ロシア人たちは非常食の黒パンを携行していたが、村でも炊き出してむすび、焼き魚、刺身、みそ汁、漬け物を提供した。薫りのよいわかめむすびに人気が集まった。食べながら「チャチャ」といいながら飲むしぐさをする。緑茶をだすと、好みにあうとみえいくらでも飲み、居合わせた人々を楽しませた。そして『チャ』という名前がロシアと共通であることに皆不思議そうに顔を見合わせた。

 翌朝も多くの人がロシア人を見にやってきた。中に3才の男の子が抱かれているのを見た水兵の一人が、しきりに手招きする。そばへ連れて行くと抱え上げ頬ずりしながら、涙をポトポト流す。隣にいた士官も子供を抱き上げたが、すぐにオイオイ二人が声をあげて泣き出す。この情景をみて村人たちは、大のおとなが声をあげて涙することに驚いたが、すぐに故郷に置いてきた幼児を思い出したに相違ないと語り合い、鼻を詰まらせて同情した。
 昨日大谷青年から「ロシア兵たちは、望遠鏡で洋上の音槌を発見し、あの舟の後をつければ上陸場所がみつかると言っていた」と聞かされた音槌は、自分の慌てぶりを思いだし苦笑した。昨晩から母に頼んで求めた夏みかんを、『鳥の巣』という背負い籠に入れ、そっくりロシア兵に手渡した。
 ロシアには夏みかんがないのか、皆いきなり厚皮に食いつく。
「だめだめ。そうしちゃァ、いけんちゃ」
右手を大きく左右に振った音吉は、ひとつを取り出すと、クルクルクルと皮をむき、内側の袋を左右に剥いて中身を口にいれてみせる。ロシア人たちも負けじと試みるが、皮の汁を目に入れたり、内袋を破って汁を膝にこぼしてうまく食べれない。笑い声が続く。
 この話しはすぐに村内に広まった。法隆寺に近い水海の仁保という家では早速、庭の夏みかんを沢山、寺へ持ち込んだ。敗残の身に寄せられるこうした須佐人の好意に「ウラー」という声と笑い声が寺をにぎわした。
 夕餉の食卓で
「鼻が大きくて赤ら顔じゃから、なにを考えちょるのかわからんと思っちょったが、ロシア人もこころの内は吾々とちーともちがわんよ」
音槌が感じいったようにつぶやくと、
「そーかい。そーかい」およねは、息子の大人びた観察眼が嬉しいらしく、目を細めるのであった。

 須佐村をひっくり返すような2日間があっという間に過ぎた。村からの至急電でオーロラ乗員が収容されたことを知った郡役所は、門司の捕虜収容所へ手配を頼み、下関水上警察署所属の鴻城丸が5月30日須佐へ回航された。
 乗船のさいにロシア士官は、暖かいもてなしへの記念として、愛用の双眼鏡を村に贈った。
 再び洋上の人となったロシア人たちは、船尾に全員が集まり、浜が見えなくなるまで
いつまでも帽子やタオルを振り続けた。
 船が須佐湾口を離れたところで、こんどは外洋で待ちうけていた音槌が、小舟で現われ、夏みかんを船内に投げ込んだ。水兵たちが中を開けると、実のかわりの大きなわかめむすびである。わっと喚声があがった。小さく遠ざかる音槌のユーモアが、須佐での回想に花を添えた。
あとで判ったことだが、カエランドスキーが、村当局へ託送を依頼した本国の実兄宛の手紙には、『我らは今日本の山陰の1孤島に上陸し無事である。これまで日本は野ばん国と聞いていたが、我らの今居る一小地区でさえよほど文化の程度が進んでおり、総て公徳心に富み、親切に扱われている。悪宣伝の誤解をとくよう機関誌に報道を頼む』と書かれていた。
村が藤富郡長に宛てた報告書を最後にご紹介しよう。

1.

5月28日午後9時、ボート1隻当須佐港内に漂着につき、直ちに出港して取り調べたところ、露国海軍兵なること分明せり、とりあえず上陸せしめ法隆寺に収容す。
漂着人員は左の如し

露 国軍艦ウォーロラ号乗組 副艦長 アルトチューフ(43才)
機関士 ドブアントスキー(30才)
下士 6名  兵卒25名  計33名
右兵卒ノ内カエランドスキーなる者英語に通ずるを以て救護上大いに利便を得たり。右軍艦は5月27日の戦闘に撃沈せられたる由

1.

5月30日午前11時、露兵は小回り船に乗せ、ボートと共に下関水上警察署鴻城丸引航し下関向け出発す。 

【参考】須佐浦中の法隆寺に、漂流記念碑が久原房之助の実兄斉藤幾太の好意で明治45年に建立された。 萩市内でロシア水兵が漂着した場所は須佐の他に見島がある。


  文献:『須佐町誌』 『大海軍を想う(伊藤正徳)』

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